戸塚ヨットスクール事件と教育哲学 その4
 大多数の親たちは、リスクを承知しながらも、確実に「一縷の望み」を抱いてわが子を託したのだ。それは、ヨットスクールには、事件前にマスコミが盛んに書き立てた、そして事件後にはパタリと触れなくなった「実績」があったからこそである。
<中略>
 一人の訓練生を救うことは、すなわちその両親や兄弟をはじめとする周囲の人々をも救うことになっている点にも留意すべきだろう。
<中略>
 ところが、その点を強調すると必ず返ってくるのが、「たとえ何百人かを救ったのが事実でも、一人でも死者を出したのでは何の意味もない」という反論である。いかにも「戦後民主主義」的な「正論」であるけれども、果たして本当にそうなのだろうか。  確実なのは、その手のもっともらしい「正論」は一人の人間をも救わない、ということだ。それだけではない、そういう論者は、この発言が、「一人の死者も出さないためなら何百人を見捨ててもかまわない」という極めて冷酷な議論に道を通じていることに、決して気づこうとはしない。そして、自らの「正論」がまかり通った結果として、見捨てられた人間の中に、幼児を殺めたり、親を手に掛けたり、親の手で殺されたりする者がいても、責任を問われることは永遠にない。要するにこれは、どこまで行っても「傍観者」としての「正論」なのである。
<3万人のための情報誌「選択6月号」から抜粋>